第二次世界大戦後、日本は吉田ドクトリンを初め、経済的発展を第一の目標に掲げてきた。
それは、東西冷戦の下、資本主義 対 社会主義の経済戦争といってもいいであろう最中で、
西ドイツと日本が資本主義経済のモデルとなり、奇跡的成長を遂げたことが冷戦の終結
西側の勝利に大きく貢献した。 
 確かに「強いアメリカ」を唱え、アメリカ経済を立て直し、危機管理を徹底したレーガン大統領(当時)、
「鉄の女」と言われたサッチャー首相(当時)が中心的役割を果たしたが、日本も西ドイツも敗戦から
立ち直ったことで大きく貢献した。
 日本のサラリーマンも企業戦士と言われ、西側に貢献するといった自負を少なからず抱いていたのでは
なかろうか?


 しかし、ベルリンの壁が崩れ、バブルがはじけた後、金融危機
という戦後最大の危機を迎えてしまった。それから脱し、立て直すためにどれだけの労力とコストがかかっただろう。




 立ち返って現在の問題は、格差社会だ。
 地方や負け組と揶揄される人たちが、切り捨てられているのではないか。
 これをただ単に経済成長によって解決しようというのは、どうだろうかと思ってしまう。


 高度成長の間も、バブルの間も、地方の過疎化は進む一方だった。
 賃上げや、正社員を企業が増やすことによって、ある程度の結果は出るだろう。


 しかしだ、少子高齢化に伴う、高齢者の介護、医療の質と量、コストの問題、負担の問題をどうやって解決するのか。
 子供を産みにくい、育てにくい、教育費が高すぎるなどといった問題をどうするのか。


 経済は、今のところ安定成長でいい。ただ、それにしても過労死などといった問題をはらんでいる。



 おそらく、皆が考えるのは、明治以来、日本はそうだったじゃないか、とゆうことだ。
 富国強兵の名の下、勤勉に働き、国を建て、列強と戦うのだと。


 それにしても思うのは、果たして勤勉という国民性などというのは、日本、邪馬台国からさかのぼった日本の歴史、倭の国からでも、本当なのだろうかとゆうことだ
 

 現実に金が要る。欧米先進国よりも物量で上回りたい。合理的に考え、効率的にしかも長時間働く。
 それはそれとしてもだ。キリスト教文化や、それぞれの国の精神、たとえば騎士道といったものを受け入れているかといえば、そうでもなさそうだし。 企業が地域に貢献することも日本ではまれだろうし、地域から求められない。
 バブル時は、メセナという文字が躍っていたが、今はどうなのかわからないし、国が文化における予算について、あまり議論しているのを聞いたことが無い。


 近代国家を打ち建て、そういった国民性が求められた。 一足、遅れて近代国家を築いた、日本の宿命といってもいいのかもしれない。




 さて、どうすればいいのか。
 ひとつは、原則論だ。 政治、経済、文化のバランスをとること。
 これによって、単なる経済成長、利益分配とゆう構図から何かが変わってくると思う。
 数字だけで物事を計らないとゆうことだ。
 ただ言うまでもなく、予算などは、適切にどの分野にどう使われるかについて、議論が必要だ。


 地域格差については、地方分権といわれて久しいが、私は地方自治の確立と言いたい。
 東京地方も、大阪地方もだ。政令指定都市はある程度、裁量があるかもしれないが、一般の地方、地域は、なかなか裁量が無いだろうし、住民の意見を取り入れにくくなっている。 政令指定都市でも住民の意見は取り入れられているのかどうか。


 この国は、官僚が意思決定の鍵を事実上握り、予算を握り、それに従うのが国民といった具合で。
 もし、政策決定で失敗すれば、最終的にツケを払うのが国民といっても過言ではないと思う。


 改革には、痛みが伴うと政治家が唱え、意思決定にはあまり参加できず、一日だけの主権者としての投票がある。とゆうのが、実態だろう。
 痛みは、さまざまな負担増として国民に突きつけられた。改革で、確かに勝ち組といわれる人々は利益を得ただろう。 では、難民とまで言われる弱者はどうやって生きていったらいいのだろうか。日本は高度成長時代から中間所得者層が、経済を支え、生活してきたはずだ。


 どうも、アメリカの市場経済中心の経済運営を真似たきらいがある。
 もちろん、日本がバブル以前の頃は、欧米各国の政財界の人々が、こぞって日本を訪れたし、景気を浮上させるためにはやむを得ない面もあるだろうが。 最近の企業の、敵対的買収などを見ていると、これは、日本の企業風土に合っているのだろうかと思う。


 脱線したが、地方自治の確立とは、住民が意思決定にある程度関わり、責任を持つとゆうことだ。 自分たちが政治に参加し、ある程度、意思決定にかかわる以上、結果責任においても受け入れる。
 もちろん政治家が代表であるから、政治責任を負う。


 そこで必要なのは、税においての自立と、主に行政の情報公開、第四の権力である報道の精神の自立だと言いたいい。


 それがなければ、中身の無い机上の空論となるだろう。



 もし、それが実現できたら、地域の活性化に何がどのように必要なのかを、地域が案じ、決定してゆくことになる。 もちろん、現状は厳しく、各地域の議会などは公共事業をどう請け負うかといった、箱物に対応するためのものになっているだろうし、簡単にはいかないとは思う。
 話はそれるが、水害など災害のとき、実に役割を果たすのは、地元の消防分団など地の利とゆうべきか、それに詳しい人々だと聞く。自衛隊がいくら入っても、地理に詳しい人がいなければ機能しないそうだ。


 つまり、地元に何が必要かとゆうことは、地元の人々が考えた方が、官僚の物差しで考えるより、いい地方自治になるのではないかとゆうことだ。


 また、いま団塊の世代が定年退職を迎える中、地方に回帰したいと思う人もいるだろう。東京などの都市で働いてきたノウハウが地方で活きる可能性を秘めているし、地方ならではの農業や自然が味わえる。今食に関して、消費者は敏感だ。
 もちろん、いいことばかりではない。自然の恐ろしさ厳しさはあるし、自給自足で農業を営むことはたやすくない。地元の人に教わりながらコミュニケーションをとって、労力を使わなければいけない。郷に入っては郷に従えとなるだろう。


 もし、地方自治の確立をして成功するのは、半分ぐらいかもしれない。しかし、このまま時が過ぎ、地方分権を骨抜きにされるのであれば、前者を採るべきだと思う。




 もうひとつ、負け組の問題だ。これはリストラとゆう名の首切りに端を発したと思うが、会社、企業がつぶれるよりはいいし、能力主義とゆう点でもいいと思う。現実に終身雇用などは続くはずがなかったし、私たち40代の人々もフリーターなどといって、会社員になることを嫌ってきた。
 しかし、リストラクチャリングであったか?。本来の意味は、事業の再構築とものの本に書いてある。再構築が出来たのであれば、それを以前の従業員数(首切り後)でまかなうのではなく、雇用の再構築とでも言うべきか、それをやらなければ、技術者など様々な分野のスペシャリストも育たない。


 日本は資源がないのだから、経済力でそれを補う必要があるのは確かだ。
 でも、命を落としてまでもか。 「企業は人なり」と唱えたのは誰であったか。
 過労死は労働力の不足から起きていると、ひとつには考えられる。今の労組には期待などできない。




 高齢化についてだ。
 この問題を考えるにあたって思うのは、誰が中心で、誰の人生なのか?とゆう問いである。
 医療費削減のもと国が執り行っているのが実情だろうが、老人は改めていうまでもなく、ひとりの人間だ。その人の晩節をどう見届けるのかとゆう発想がない限り、有効な治療も介護もないのではないか。どこを削りどこを補うか、コストにおいても、その人のために何が必要で何が要らないかを考えず、単なる予算の削減をしても、現場に負担がかかり、老人が人として生きてゆけるか不安になるだけだ。
 介護保険など負担増になっても十分どころか、以前より受けられるサービスなどは減っているらしい。
 そのために、行政などの無駄を削った上で増税が、あるいは負担増が起こるのであれば、国民は納得した上で支払い、老いてゆくことを不安に思わなくなるだろう。限度はあるが・・・




 少子化については、まず教育費がかかりすぎるとゆう点では、私は楽観している。大学は増え続け、子供が減り続けているからで、需要と供給とゆう点でだ。
 しかし、有名大学に入る必要があると親が判断した場合、状況は一変する。小学校や幼稚園からか、塾に通い、英語から数学まで、小学校高学年で微分積分を解けるようになるそうだ。これでは金がかかりすぎる。
 ただ、私の考えでは、受験戦争や偏差値アップとゆうのは教育だろうか、あるいは学問として成り立つだろうか、と疑問を抱いてしまう。受験テクニックみたいなものは、ある意味、引っ掛けに乗らないとか、悪知恵といっては失礼かもしれないが、そう思ってしまう。
 


 私が小学生の頃、ある有名な学者がTVに出て、「今私が大学を受験しても受からないでしょうね」などと言っていた。 
 またある東大教授は、なぜこんな馬鹿ばかり東大に入ってくるのだと嘆いていた。
 それに加え、微分積分を理解するには、相対性理論を理解する必要があるそうで、一握りの学者しかそんなものを理解できないらしい。
 大学生のスキャンダルみたいなものもあり。
 確かに大学へ行って、研究したり、本を読んだりすることは有意義だと思うが、そんなに有名大学を目指す必要があるだろうか。


日本の教育は、文部省と日教組が主に行ってきて(恐らくだが)、私のころは管理教育が行われた。ブロイラーと言われ、高校のころなどは知的収容所かと、後になり回想した。
 勉強だ強いるのが教育だと言わんばかりだった。確かに基礎学力を身につけるには、繰り返し強いることが必要となる。ただ、それは小学校、あるいは中学校まででいいのではないか。



 
 私は高卒後、都内の専門学校へ進学した。そこで、大きな収穫があった。
 ある外国人英語教師から、「あなた達はなぜ学ぶのですか」と問われ、ひとりひとり思うことを答えていった。私は鍛錬のためと答えた。
 ひとりとして、その先生の意に沿う答えをした人はいなかった。
 先生は「知りたいからです」と最後に言った。そして、「私は今ギリシャ語を学んでいます。それを学んでもなんの実用価値などありません。ただ知りたいから学のです」と言ったようなことを言った。
 それを聞いて目が点になったのと、今までの勉強とゆうものはなんだったんだろうとか、果たして何を知りたいのだろうとか。



 その後、数年してから、やっと知的好奇心に目覚め、ひきこもって本を読んだ。文藝春秋で紹介していた『20世紀に読んでおきたい本』とか特集を参考にしたりして、決して多くは読めなかったが、100冊ぐらいに目を通した。
 
 いま、なぜ学ぶかについては、昔からだが、いい大学に入り、いい会社に入りたいとゆう動機からだろう。もちろん、それも必要だが一考しなければいけないと思う。 


 今は教育基本法が改正され、脱ゆとりを掲げていると思うが、果たして、また詰めこみを強いる教育を高校までするのかと思うと、正直ぞっとする。


 なぜか、思春期には、だいたいの人が想い悩む年頃だと思うからだ。
 だいぶ前の情報だが、たとえば夏目漱石の『こころ』を読むのは25歳ぐらいになってからの人が多いと読んだことがある。でも、思春期にこそ読むべき本だとだれもが思うのじゃないでしょうか。
 思春期に受験勉強などに追われ、想い悩むひまがない。これは不幸だと思います。


 昔は、フリーター、私もそうです。今はニートと呼ばれる人々は、大人になり二十歳をすぎてやっと想い悩みはじめるんじゃないでしょうか?
 思春期は大人になってゆく過程で必要不可欠なものだと思います。その時期、その年頃に、いっぱい悩み、どうやって自分の人生を切り開いて行くのか。いったい自分は何がしたくて、どう生計を立てていきたいのか。
 その時期を逸してしまうのは、非常に心苦しい。いまの、将来の子供たちにそれをさせたくない。それが、私の正直な思いです。




 少子化は、ある意味、この国の将来を悲観しているとゆう心理的なあるいは無意識な感じ方を大人が持っている面があると思う。不安を抱いているとゆうことだ。
 大人も必死で食っていかねばならない。子供を育てる余裕がない。この国は財政を初め問題が山積している。
 政治家、官僚、財界のモラルハザード、色々なことが重なり、殺伐とした世の中になっている。



 それを建て直すことが、いずれ日本の将来に夢や希望を与えることになり、様々な問題を解決してゆく手がかりになると信じています。



 それには、国の政策について、喧喧諤諤の議論。国会が言論の府としての権威を取り戻すこと。
 ジャーナリズムも真っ向から、自分自身の言葉を投げかけること、語りかけること、書く事が必要だ。
 たとえば予算案について、見出しは何月何日頃通過の見通しなどとゆうのでは、予算案について賛成していると思ってしまう。解説などで問題点があるとか書いてあったとしても、国会で通過することについて異論はないと言っているに等しい。
 そんなことを書きながら、やれ天下り反対などと、いくら官僚たたきを展開したところでなんになるのか。


 それには、テレビ局の免許制から登録制の改正や、主に官僚が握っている情報の公開がッ必要だろうし、そのような法改正を提言すればどうかと思うが。
 官僚からのリークをスクープだと言って報道していてもなんにもならないでしょう。
 情報公開がなされ、それをジャーナリズムがあらゆる観点から分析し報道し、評論家や、様々な人が言論をし、オピニオンリーダーとしての役割を果たしてゆく。
 それを国民ひとりひとりが自分の判断をし、意志決定に少しでも関わってゆく。
 それが急務じゃないでしょうか。



 なぜこの国の人々はこの国と呼ぶのか。と苦言を呈していた評論家がいたと思いますが、国の意志決定に関わる機会が実感として持てれば、我が国と自然に呼ぶようになると思います。